今回は、文政小判金(草文小判)の価値と見分け方についてご紹介を致します。
文政小判は、1819年(文政2年)から1828年(文政11年)にかけて11,000,000,000両以上も鋳造されました。
文政小判以前に鋳造された元文小判と重さはほぼ一緒なんですが、金の含有量が少なくしてあり、当時の幕府が改鋳利益による財政補填をするために作られた小判と言われています。
この改鋳利益とは、元文小判を回収し、金の含有量を少なくして、より多くの小判を鋳造することで、政府に莫大な利益が入るという仕掛けなんです。
文政時代は、第11代将軍 徳川 家斉(とくがわ いえなり)が権力を握っていた時代で、寛政の改革(かんせいのかいかく)が終わり、緊縮政策の反動から賄賂政治や贅沢な生活を送るようになった時代です。だからより多くのお金が必要だったのでしょうね。
そんな文政小判金(草文小判)のなかでも希少価値が高いものになると170万円もの値が付くことがあります。
文政小判金(草文小判)の裏面には文政時代を表す年代印の「文」の刻印が打たれています。
↓写真の右上にある「文」が年代印です。
文政小判の前に鋳造された元文小判の重さが13グラム、文政小判金の重さが13.07グラムと重さは、ほぼ一緒なんですが、元文小判の金の含有量が約65%に対して、文政小判金の含有量が56%と少なくなっているんですね。これは、当時の幕府が改鋳利益によって財政補填をするために金を意図的に少なくしたからと言われています。
この改鋳利益とは、元文小判を回収して新たに小判金を鋳造する際に、金を少なくすると、少なくした分だけより多くの小判金を作ることができますよね。より多くの小判金を作れば政府の財政も潤うということなんですね(^^♪
文政小判(草文小判)は、江戸時代に7番目に通用された小判で、別名「新文字小判」、「草文小判」とも呼ばれます。
元文小判と同様に「文」の文字が打印されていますが、文政小判の年代印の「文」の文字が草書体であることから「草文小判」とも呼ばれています。
また、裏面には、「文」の刻印以外にも、「金座人印」と「吹屋棟梁印」が刻印されています。
写真の文政小判金は金座人印が「石」、吹屋棟梁印が「吉」ですが、「吉」の刻印は縁起が良いとされ希少価値があります。
なかでも、偶然大吉と呼ばれる「大」「吉」は、倍以上の買取り価格が付きます。
ちなみに、この金座とは、金貨の鋳造を幕府から独占的に請け負った貨幣鋳造組織で、金座の役所であった後藤役所、地金の製造を担当した金座人役所、貨幣の成形を担当した吹所(ふきしょ)の3つの組織からなっていました。
小判の金座は、1601年(慶長6年)、江戸・京都・佐渡・駿河にありましたが、1695年(元禄8年)に京都と佐渡が廃止され、江戸金座の出張所としての位置付けで、京都金座、佐渡金座となりました。
今は金座という地名は残っていませんが、銀座は皆さんもよくご存知の高級店が立ち並んでいる今ではブランド化した地名ですよね。
この銀座は、江戸時代に銀貨の鋳造が行われ、銀座以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたことから名付けられ今もそれが地名になっているんです。
この「金座人印」とは、金座の事務官および技官のとてもお偉い方々の印で、吹屋棟梁印とは、吹所(鋳造所)のお偉い方の印を示しています。
文政小判金の表面上部と下部には、「五三桐(ごさんのきり)」と後藤庄三郎光次(みつつぐ)の名と花押が刻印されています。
気になる価値ですが状態が良ければ35万円、並でも20万円もの高値が付きます。
また、偶然大吉と言って、金座人印と吹屋棟梁印が「大」と「吉」からなる判金は希少価値が高く高値で取引がされています。
そのほか、献上判と呼ばれる意図的に「大吉」の極印が押された判金があり、「大」と「吉」からなるため当時は大変縁起が良いとされていました。
献上判と偶然判の違いは、献上判には「大名の収蔵印がある」「両替商の刻印がない」という点があります。また献上判は市場に流通しない小判であるため、状態良いというのも特徴です。
この献上判の文政小判金ともなると、なんと!状態が良ければ170万円もの値が付くこともあります。
こちらが文政小判金の買取り価格になります。
鋳造量 | 上 | 中 | 下 |
11,043,360両 | 350,000円 | 300,000円 | 200,000円 |
偶然大吉 | 800,000円 | 600,000円 | 450,000円 |
献上判 | 1,700,000円 | 1,200,000円 | 800,000円 |
品位 | 金559/銀441 量目 13.07g |
※日本貨幣商協同組合発行「日本貨幣カタログ」より価格を掲載しております。
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