古銭盛岡藩(南部藩)で鋳造された寛永通宝の価値と見分け方
今回は江戸時代 慶応2年(1866年)に鋳造された古銭で、背面に「盛」の文字がある寛永通宝の価値と見分け方についてご紹介を致します。
1866年に鋳造されたって聞くと、かなり昔って感じがしますが、1866年は徳川の長い歴史が終わろうとしている幕末で、明治時代が始まるほんの2年前です。
坂本龍馬(さかもと りょうま)らの仲介により、薩長同盟が結ばれたのもこの年でもあるんですよ。
その翌年には、大政奉還があり、将軍 徳川慶喜で長い徳川の歴史が終わりました。
そんな時代に鋳造されたのがこの寛永通宝です。
幕末は、どの藩の家計も苦しかったようで、藩独自の貨幣が発行されました。
盛岡藩、南部氏(なんぶし)が藩主だったため南部藩とも呼ばれますが、その藩も他の藩同様家計が苦しかったことから、幕府の許可を受けて慶応2年に寛永通宝を鋳造しました。
盛岡と言えば、現在でも急須や鉄鍋などでの南部鉄器が有名ですよね。
鉄の産地でもある盛岡藩は、銅では無く鉄を用いてこの寛永通宝を鋳造を致しました。
盛岡藩が鋳造した寛永通宝には、背面に「盛」の文字が刻まれている寛永通宝と、何も刻まれていない寛永通宝の2種類があります。
幕府の指示により背面(裏面)に「盛」という字が刻まれたことから「背盛」と呼ばれています。
また、下の写真のように寛永通宝の裏面には波模様がありますが、これは4文銭を意味しており、波模様が無い寛永通宝は1文銭で、同じ寛永通宝でも区別するために設けられました。
「盛」の文字が刻まれている寛永通宝は領内に限り使用されましたが、背面に何も刻まれていない寛永通宝は他の地域へ密輸されたんですよ。
寛永通宝「背盛」の価値
そんな「背盛」の寛永通宝の気になる価値ですが、通用銭なら2千円にもなることがあります。
さらに!母銭ともなると、希少価値が高い為、その十倍以上もの3万5千円にもなることがあります。
ちなみに通用銭とは、市場に出回り実際に物の売り買いに使われた銭です。
一方の母銭は、市場に出回ることがありません。通用銭を鋳造する時の母型(ぼけい)で、材質や寸法に違いがあります。通常銭よりほんのわずかだけ大きく、文字なども鮮明という特徴があります。
※日本貨幣商協同組合発行「日本貨幣カタログ」より価格を掲載しております。
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